好きだった。
今も好きだけれど、
カネはなくてもヒマはあったあの頃や、
ヒマはなくてもコガネがあったあの頃と違って、
仕事の現場移動を除けば、今はあまり遠出は出来ない。
家族でどこかに行ったというのでなく、
一人で遠くまで出かけて行った初めは、
5年生の鹿児島往復だった。
資金はお年玉を駆使、
不足分は風呂のカビ掃除と各方面へのゴマスリでなんとかした。
まだ大宮までしか行っていなかった東北新幹線に乗り、
東京から小倉までまた新幹線に乗り、小倉からは特急で宮崎まで、
とにかく延々と乗りっぱなし。
新幹線で食堂車に行き、
小倉では生意気に駅のスタンドでホットドックを食い、
仙台を朝の7時頃出たと思うのだけれど、宮崎に着いたのは夜の11時過ぎ。
宮崎の親戚宅に身を寄せて、洗濯物がたまればコインランドリーに行き、
鹿児島の親戚宅にも遊びに行って、随分と長い事過ごした後、
同じ道を延々乗り継いで帰って来た。
座席でも食堂車でも色んな人に会って、帰宅後に手紙をもらい。
鹿児島から宮崎に行く車内で会ったおじさんには「遊びに来い」と名刺をもらい、
本当に会社まで遊びに行って土産をもらった。
特急の車内で退屈そうにしていた特急運転手さんと話し、
仙台から来たと聞いて驚いて、安全ピンで裏に「大分運転所」と彫ってから、
自分のバッジをくれた。
これはいいぞと味をしめた僕は、中一で友人を誘ってまた九州に行き、
ぐるりと一周して阿蘇山の草千里の眺めに感激したり、
泊まったペンションのオーナーに連れられて星を眺めに行き、
生まれて初めて天の川を観てたまげたりした。
その帰りの新幹線、食堂車でポルノ映画を撮ってるオヤジと相席して、
お前らもいつか俺の撮ったモノを観るのかなぁと、妙に感傷的な顔をされた。
とにかく東京発10:00のひかりに乗り、小倉着が16:56。
そして宮崎着が23:08というのを未だに覚えている。
小倉まででも7時間かかっている。
その後の旅では寝台車を使うようになって、
それもホトホト楽しかったのだけれど、
九州まで17、8時間は乗っていたのではないか。
北海道には14歳で初めて渡った。
発売されたばかりの18切符を使っての鈍行一人旅。
仙台を朝の10時に乗り、向かいの席のおっさんにみかんをもらい、
八戸で立ち食いそば屋のおばちゃんに卵をおまけしてもらいして、
夜の8時前に青森へ。
青函連絡船で津軽海峡を超えて函館。
函館からはこれも初体験の各停の夜行列車で札幌へ。
函館の立ち食いそば屋では、発車ベルに慌てたおばちゃんが、
ネギも入れずに持ち込み丼でかけそばを寄越した。
そこから乗り継ぎ乗り継ぎ、網走に翌日の夜8時前に着いた。
20時間程度乗っていた事になるけれど、
奈良から網走まで18切符で帰るという婆さんと連絡船で知り合い、
まさに旅は道連れであまり退屈しなかった。
ずっと編み物をしていた婆さんが、
網走で降り際に「はい間に合った」と言ってマフラーをくれたのに驚いた。
そう言えばあのマフラーはどうしたかなと思う。
高校生になり、友人と北海道を一周した時には、
釧路からの列車で老夫婦と会話をした。
まだ釧路を発車する前、
ボックス席を二人で陣取っていると、通路を老夫婦が歩いて来た。
ご主人はサングラスをかけ、白い杖をつきながら歩いてくる。
付き添っている品の良い奥さんと目が合って、
僕らは慌ててボックスの二席を空けた。
奥さんから「この人たちに聞いてみたら」と促されて、
ご主人は「そうしようかな」と言う。
奥さんはこちらに向き直って「わたしは上手く説明できないの」と言った。
何かと思ったら、ご主人が「新幹線とはどういうものですか?」
僕ら二人は必死になって、車輛の形から高架橋の様子まで話したけれど、
言葉だけで説明するのは意外と難しい。
全く上手く伝えられた気がしなくて、とてももどかしい思いがした。
それでもご主人は、遠くを見る様に、
顔を上げながら僕らの支離滅裂な説明を聞き、
「ほう」とか「へえ」と言いながら、時々少し首を傾げるようにして、
細かい質問をした後、「なるほどなぁ、どうもありがとう」と笑顔で言った。
斜里という駅に着く少し前、ご主人は窓の方に顔を向け、
「あの辺に姿の良い山があるでしょ、斜里岳というんですよ」と言い、
奥さんも今日はよく見えるわよと言いながら、僕らにお辞儀をして降りて行った。
残った僕らは、話しが上手くなりたいなぁと話しながら網走に向かった。
脱線が許されない鉄道の話に、
完璧に脱線して長いこと書いているけれど、
九州の新幹線が博多から鹿児島までつながるとか、
東北新幹線も青森まで開業するとか、そんな記事が目に入り、
青森まで3時間半、大阪から鹿児島まで乗っても4時間前後と知って、
少しばかり驚いたので、つい書いた。
昔は良かったという話しではないけれど、
時間がかかって退屈すると、何となく周りの客同士が親近感を持ち、
それとなく会話が始まったよなぁと思う。
そして子供ながらに、鹿児島とか網走って遠いんだなぁとか、
そんな事を感じていたのは、今考えれば大事な事だった気がしなくもない。
東京に住んで誰かと話す度に、
というか少し酒が入る度にだけれど、
距離の実感セヨと面倒な話を繰り返している原因は、
恐らくその辺にあると思う。
クニを離れてまだ15年だけれど、
その間にもどんどん所要時間が縮まっているようだ。
青森まで4時間かからない電車に乗ったら、
仙台なんてどれくらいで着いてしまうのかと考え、
クニと今住む東京での経験差を考えると、
早すぎるのも考えものだという気がして来て、
また各停で帰るんだろうなと思う。
高校生時代の教訓が生きなくて、
またまた支離滅裂で、まぁ長い長い話で恐縮だけれど、
きっとまた同じ様な事を書くのではないかなぁとも思う。
どうもすいません。