あり過ぎると扱いに困る」
大好きな作家、宮脇俊三氏の二作目は、
そんな書き出しで始まる。
中央公論社の名編集者として名を馳せ、
北杜夫氏を見い出し、中公新書のシリーズを成功させ、
中央公論本体の編集長から同社の取締役にまでなった氏が、
作家デビュー作を出す為に会社を辞して、
二作目の主題そのものとなる旅に出るにあたって、
万感込めた筆致で書いたのが、上の書き出しである。
この言葉からは、物理的な動きだけではなく、
高揚感と不安感が交じった想いが漂っている気がする。
時代がどう変わろうと、
会社勤めから、アルバイトから、
とにかく環境を変えて、
自身で仕事を始めようとする時、
感じる気持ちは似ているのではないかと思う。
氏と同一視するには、僕の仕事はあまりにも微々たるものだけれど、
それでも10年勤めた会社を辞め、個人として始めた仕事が本格化するまで、
暫く感じていたのは、拘束されない「自由」と「不自由」だった。
仕事が本格化したと言っても、忙しくなっただけとも思うのだけれど、
それからも「自由な不自由さ」はついて回り、少しく「不自由ばかり」と、
感じない事もなくなっていった。
今年に入って、その「不自由」がまた、
『自由』に変わり始めている。
形にしたくて仕方がなかった仕事が、
僕は以前程は深く関わらずに形を成そうとしていて、
昨年には思いもよらなかった、しかもこれまでは想像もしなかった、
僕にとって全く新しい形の仕事が、
僕が深く関わった事でやはり形を成そうとしている。
やる事が増えて、とても不自由に感じそうな所だけれど、
それをやるのは僕の自由な訳だよなと、混乱しながらも考える。
もっと考えたい時に行くあの
お店の人達は、
いつも通り、自然な空気で構ってくれたり放っておいてくれたり。
お陰で閉店する頃まで自由に考えて、
何だか最後はスッキリした。
やはり好きな空間だと思うのは僕の自由だなぁと思い、
自由は扱い方によっては悪くないものだなとも思う。
またしても、全くもってまとまらない話ではあるけれど、
店を出ると雨が上がり、やたらと街灯が光っていて、
今日もありがとうと思いながら電車に乗った。